無名でも、言い続けた先に道は開ける。神谷怜央がドイツで挑戦を続ける理由

インタビュー

選抜歴も全国大会出場歴もない。
いわゆる華やかな実績を持つ選手ではなかった神谷怜央は、今、ドイツ6部のFC BASARA MAINZでプレーしている。FC BASARA MAINZは、岡崎慎司さんに関連するクラブとして、日本のサッカーファンの中には名前を耳にしたことがある人もいるだろう。そんな場所で、神谷はプロサッカー選手になるという夢を追い続けている。

「行くために何をするか」を考え続けてきた

神谷は、大学4年の頃にはすでに海外挑戦を前提に動いていた。

「すごく悩んで決めたというより、行くために何をするかを考えていました」

1年以上前から人に話を聞き、どの国にするかを考え、準備を進めた。就職活動はせず、その時間を挑戦のために使った。幼い頃から「海外でプレーしたい」「プロサッカー選手になりたい」と言い続けてきたことが、進路の選び方にもつながっていた。

「自分で言い続けてきたからこそ、行くことが前提になっていたと思います」

夢を持つだけでなく、言葉にし続けること。その積み重ねが、自分の選択を少しずつその方向へ寄せていった。

ただ、海外挑戦は思いだけで進められるものではない。神谷が強調していたのは、渡航前の準備の重要さだった。ビザをはじめとした手続き面はもちろん、誰がどこまでサポートしてくれるのかを事前に把握しておく必要がある。

実際、所属先や生活環境が十分に整わないまま渡航してしまうケースもある。その点、神谷は渡航前にFC BASARA MAINZでプレーすることが決まっていた。チーム側が必要な資料も用意してくれたため、準備は進めやすかったという。親や周囲の不安もかなり和らいだ。

一方で、日本にいるうちに語学をもっとやっておくべきだったとも振り返る。

うまくいかなかった時間が、今の自分をつくった

ここまでの道のりは、決して順調ではない。小学校時代の神谷は、いわゆる強豪クラブで育った選手ではなかった。週1回のスクールには通っていたものの、本格的にクラブチームで打ち込む形ではなく、サッカーは友達とボールを蹴る日常の延長に近かったという。

本格的に毎日サッカーに向き合うようになったのは、中学からだった。地元の中学校の部活動に入り、ようやく競技としてサッカーと向き合える環境ができた。ところが、1年生の夏に腰を骨折する。3年生が引退し、1、2年生主体の新チームへ移っていく時期を外から見ることになり、ユニフォームすらもらえなかった。

それでも神谷は、自主練を重ねた。学校で一人で練習し、試合後には先生に頼んでボールを蹴らせてもらった。

「周りが見たら笑うくらいやっていたと思います」

やがて、限られた出場機会の中で得点を決める。そこで初めて、努力が報われる感覚を強くつかんだ。その経験は、「努力すれば変われる」という感覚として、いまも自分の中に残っているのだろう。

高校では、より競争の激しい環境に進んだ。大所帯の中で思うようにいかない時間は長かったが、最後の試合で、自分の武器を改めて確認できたという。前線から走り、相手に圧力をかけること。華やかな技術で違いを見せるタイプではなくても、自分には自分の勝負の仕方がある。その輪郭が、少しずつ見えてきた。

高校卒業後は帝京大学へ進学した。関東リーグ1部、2部ではなく、その一つ下のカテゴリーならチャンスがあるのではないか。そう考え、自分が成長できる環境を探した末の選択だった。

だが、実際に入ってみると、想像以上にレベルは高かった。

全国経験者やプロに近い経歴を持つ選手も多く、神谷はCチームからのスタート。さらに2年時には怪我も重なり、サッカーが十分にできない時期も経験する。復帰後も思うようにカテゴリーを上げられず、焦りだけが強くなっていった。

サッカーを嫌いになりかけた大学時代、環境を変えた

神谷にとって、最も苦しかったのは大学時代だったのかもしれない。復帰して結果を出さなければいけないという思いはあるのに、プレーは噛み合わない。新入生も入り、自分の立場はさらに苦しる。

精神的にかなり追い込まれ、1週間ほどまともに食事ができない時期もあった。練習中に倒れてしまったこともあり、自分でも「このままではまずい」と感じていたという。

「このままでは、サッカーそのものが嫌いになってしまいそうだと思いました」

この言葉には、当時の切実さがにじむ。大学でサッカーを続けることよりも、まずサッカーを続けられる状態に自分を戻すことが必要だった。そこで神谷は、大学の部活動を離れ、社会人チームへと環境を移す決断をした。競技を諦めるためではなく、もう一度サッカーを取り戻すための選択だった。

セレクションを受け、いくつかの話をもらう中で、自分が最も成長できそうだと感じたチームを選んだ。そこは東北社会人リーグのFCプリメーロ福島だった。天皇杯予選でJリーグクラブと対戦できる可能性もあり、その環境に魅力を感じたという。

新しい環境では、全試合に出場した。最初から完璧にフィットしていたわけではない。それでも試合に使い続けてもらえたことで、自信とサッカーの楽しさを少しずつ取り戻していく。試合に出ること、自分がチームの中で役割を持つこと、その喜びを改めて感じた時間だった。

さらに、その社会人チームでは「チームを勝たせる選手」とは何かを学んだ。夏に加入したセンターバックの選手の存在によって守備が締まり、チームは一気に勝ち始めた。個人で結果を出すことはもちろん大事だが、それだけではない。チームをどう安定させ、どう勝たせるか。その視点を持てたことは、海外へ渡る前の大きな財産になった。

FC BASARA MAINZで知った現実

そうして神谷がたどり着いたのが、ドイツ6部のFC BASARA MAINZだった。選手はドイツ人、日本人、そのほかの国籍の選手が混ざる構成で、スタッフも多い。監督やコーチだけでなく、トレーナーやインターンもいて、同カテゴリーの他クラブと比べても環境はかなり整っていると感じている。

ただ、環境が整っていることと、そこで簡単に活躍できることは別の話だ。渡独後に強く感じたのは、レベルの高さだった。日本とはスタイルも異なり、より激しく、より走り、より戦うことが求められる。今はトップチームでなかなか試合に絡めない時期が続いているが、その中でも毎日必死に取り組んでいる。

特に大きかったのは、一瞬のスピードと、結果への厳しさだ。取れると思ったボールが取れない。抜けると思った場面で抜けきれない。さらに、結果を出した選手が強く評価される文化がある。下のカテゴリーであっても、成績やベストイレブンが可視化される世界だ。数字を残せば上に進める可能性がある一方、残せなければ置いていかれる。

「やはり結果がすべてだと感じます」

現在はアタッカーとして、得点に関わる力をもっと高めなければいけないと考えている。一方で、自分の武器であるスピードは十分に通用している感覚もある。GPS計測でチーム内トップの数字を出したこともあり、その武器をどう生かすかが、次のステップに進む鍵になっている。

言葉にしてきたから、今ここにいる

サッカー選手として、子どもたちに何かを伝えられる存在でもありたいと考えている。指導者経験もある中で、自分のように華やかな経歴がなくてもサッカーを続け、海外挑戦までたどり着いた存在だからこそ、届けられる言葉があると感じている。順調に勝ち上がってきた選手だけではなく、悩みながら、遠回りしながら、それでも続けてきた選手の言葉に救われる子どももいるはずだ。

「まずは夢を持って、それを信じ続けること。口に出したり、ノートに書いたりしながら、思い続けることが大事だと思います」

幼い頃から海外でプレーしたいと言い続けてきた。うまくいかなかった時期も、心が折れかけた時間もあった。それでも、その言葉を手放さなかったからこそ、いまドイツの地に立っている。

 

プロフィール

神谷怜央
東京都出身。幼い頃からプロサッカー選手を志し、選抜歴や全国大会出場歴がない中でもサッカーを続けてきた。国士舘高校、帝京大学、FCプリメーロ福島での経験を経て、現在はドイツ6部のFC BASARA MAINZでプレー。JFA Cライセンスを所持し、指導者としての経験も持つ。自身の歩みを通じて、子どもたちに夢を諦めない大切さを伝えることも目標のひとつとしている。
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